古之学者為己

古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす
論語 憲問
古之学者為己、今之学者為人

発見よりも発明。
自然科学者であれば自分の修養、満足のために発見をする目的で様々な研究を行っている学者もいる?が、化学や昨今の医科学の分野では特に発見では飽き足らず、発明に固執する傾向が強いように思える。
おそらく、発見であれば特許を取ることはできないが、発明であれば特許を取得し、研究機関や企業、国家に多大な利益をもたらすことが、意識的、無意識にも研究を取り巻く環境に影響を与えていると思う。
学者もそれがわかっていて、十分な発見の成果であるにも関わらず、発明として確立させるために、発現の経緯とその過程を理論化すること、且つそれが最初でなければいけない、二番目ではダメであることの重圧と焦りから、未熟な論文内容で発表しているようにも感じられる。
今回の騒動も、対象のモノが本当に存在して、作り出してはいたことが確かならば、十分な発見であると思う。生物を扱う自然学者であれば、これを発明ではなくて発見として発表するべきだったと思う。過程や理論はそれから組み立てても、学者としての自己の修養を考えるならそれで十分だったはず。
でも、そうさせない研究を取り巻く環境や、自然科学とは違う医科学や化学の学者の考え方なのかもしれない。
でも、最近は自然科学も「××の為」という目的意識が強すぎると思う。そのためにデータを自分のその「××の為」に合うように収集し繋ぎ合わせているに過ぎない。
鯨の問題、自然保護や、動物保護で特にその傾向が強いと思う。
鯨を捕り続けたいが為の研究、鯨を保護したいが為の研究。まったく逆の理論ができるのは当然。
鯨を知りたいから研究するという学者なら信用できるが、日本の政府、そして保護側の組織の研究結果はどちらも全く信用できない。
ダムの問題、熊の問題も同じ。
いやよく考えてみたら自然科学だけじゃない、医学、原子力、そして最近の外交問題までなっている歴史、様々な学問で学者の「××の為」という独り善がりと、それを都合の良いように取捨する、マスコミと大衆と政治家。
自分自身が人としてより良い存在になろうという、またその為の修養を楽しめる学者というのはいなくなってしまったのか?
それとも、本当にそういう学者は古代中国の仙人のように隠者となってしまったのか?
学者が、その学者本人が、本当によりよくありたい自分を修養する為の学問とその成果というのは、自然に正しく、現実であり、何を意識するでもなく自然と人の為にもなるものになると思うのだけど・・・。

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このページは、malmaが2014年4月 9日 20:07に書いたブログ記事です。

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