未知生、焉知死

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未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。

【 論語 】 先進

生きるということもいまだにわかってないのに、死についてわかるはずがない。

 

臓器移植法の改正案が国会を通りました。

世界は進むべき道を違え、人類の英知は後退していくことでしょう。

 

移植というのは誰かの犠牲の上に成り立っています。そして今現在移植でしか助からない多くの患者にとっても、全ての患者がこの犠牲の上の恩恵に授かれないことからも、過渡的な医術の一つであるべきなのに、脳死を人の死とすることで、移植医療に停滞、固執する環境を作ってしまいました。

 

そして、移植医療はさらに進化するでしょう。しかし、根本的な治療や発症を防ぐ医療の発展に危機感を持って取り組む姿勢が薄まる危険もあります。これは、今現在移植でしか助からないとされている患者にとってもマイナスであり、今後も出てくるであろう患者にとっても不幸なことです。今回15歳以下の子供の臓器移植が可能になっても、全ての患者が移植を受けられるわけではないのです。

それだけではなく、脳死を防ぎ、治療する医療の研究も疎かになることが最大の惨事です。

心臓病や様々な臓器を移植で死の縁から生還させる一方で、脳死を克服する医療がなくなってしまうのであれば、これは死ではなく生を天秤にかけたことと同じです。

 死を天秤にかけるのは簡単です。その時の生かせられるほうを生かせばいいのです。しかし生を天秤にかけてどちらかに死を与えるというのはしてはならないことです。そして、医療というのは、その病状で助ける助けないを決め付けてはならないはず。ならば死を克服するために、今移植医療でしか助からない人たちも助けるために、そして脳死をも克服するために人類の英知が試されているのに・・・。一部の良識人ぶっている人たちは、日本が立ち遅れているなどと言っています。僕は逆に日本が世界の最先端の議論を重ね、脳死を人の死と認めない意識が、医療の面からも脳死を克服しようという、さらに移植でなくても治療できる方法を研究しようという最良の環境にある国家だと思っていたのですが・・・。とくに小児脳死は今後の医療の発展で回復できないと言い切ることはできないはずです。

 

孔子は死や鬼神神霊のような知ることのできないことより、目の前の現実の問題に目を向けるべきと説いています。

 

そう考えると、脳死者からの移植を禁止しろとかとは思いません。現実問題として今現在では脳死を回復させる術は無いわけですし、移植をすれば助かる人がいるのも事実。脳死を人の死とするとかしないとかを議論するより、当面は脳死は人の死とせずとも、本人の遺志と家族の同意で暫定的に移植を認め、移植を必要としない医療の発展と、脳死を防ぎ克服する医療の発展がともに進む環境を整えるべきというのが僕の解釈です。

尊厳死も取りざたされているけど、尊厳死を検討、法制化するのであれば、脳死からの臓器移植の扱いも当面は当人と家族の同意を得た尊厳死者からの移植として暫定的に認めるというのも法整備をすれば可能かもしれません。つまり、尊厳死の枠に脳死を含ませて、本人と家族の同意で死を認め移植も可能とするというのがベストではないけどよりベターなかたちと思うのですが・・・。

 

脳死を人の死とすることが、移植医療と強く結びついて議論されていることに、強い違和感を感じているのですが・・・。いずれ、死の克服に向うべき医療が、死の幅を広げる法整備を望んだとしたら、遠い未来かもしれないけど、過去の魔女狩りや、地動説が巾を利かさせた時代のように、文明が停滞した時代として記されることとなるでしょう。

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このページは、malmaが2009年6月19日 00:27に書いたブログ記事です。

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